ミシンといえばシンガー

シンガー社

シンガーミシン

エリアス・ハウはシンガー製品の販売停止と賠償金25,000ドルの支払いを 求めていましたが、1854年に15,000ドルで訴訟が和解成立します。 これによりシンガーは製造販売権も取得することができました。 この製造販売権を取得できたことが、後のシンガーを躍進させることになるのです。 この和解に大きく貢献したのが、名弁護士エドワード・クラークです (後のシンガー副社長)。 エドワード・クラークは着実に法廷での訴訟をこなしていき、訴訟が和解成立して 15,000ドルをエリアス・ハウに支払い製造販売権を取得すると、 シンガーの副社長へとなります。

時代の流れ

アメリカでは当時、200社を超えるミシンの製造会社がありました。 世界で初めて割賦販売を発案したシンガー社の拡販方式は、高価なミシンを売るにはピッタリの販売戦略となります。 シンガー社はその販売方式と強力なマーケティングによって、1900年代初頭には世界のミシン市場を独占し、数ある他のメーカーを淘汰します。 家庭用ミシンの代名詞とも言えるシンガー社は、日本でも聞いたことがあるでしょう。 シンガーに代表されるミシンの爆発的な普及は、当初から職業用として使用されたことも大いに関係ありそうです。 それまで家内製手工業であった縫い仕事が、ミシンの普及により工場生産型へと移行していく時代の流れにもうまく乗ることができたのです。

シンガー社の発展

その後ヨーロッパでも多くのメーカーがミシンの製造を始めますが、シンガー社だけが経営・販売・開発の3本柱をしっかり築き上げ、巨大ミシンメーカーへと発展することになります。これはシンガー社の副社長で2代目社長にもなったエドワード・クラークが、その手腕を発揮して築き上げたのでしょう。 シンガー社は他社の有効パテントを次々と買取ると、その資本力を工業用のミシン開発に注ぎ込みます。 そして工業用ミシンでも全ての分野を網羅します。 ミシンがここまで普及したのは、シンガー社の販売力による貢献があるのです。